イザベラX真澄ヘヴン・ウィークの名称について
イザベラ・バードは明治10年東北を巡ったイギリス人女性旅行家ですが,(詳しくはイザベラ特設ページをごらんください)イザベラよりも100年も前に東北をくまなく歩いた人がいます,それが菅江真澄です。
今回のヘヴン・ウィーク・シリーズはイザベラが足を踏み入れることがなかった新潟から青森までの海岸線,および,青森県内の津軽と下北半島を巡ります。本ブルベは偉大な二人の旅行家に敬意を評して,イザベラx真澄ヘヴン・ウィークと題しました。先人が後世,我々に伝えている江戸幕末期と明治初めの東北を知らなければ出会えない風景があります。
菅江真澄特設はどんな人?菅江真澄 (1754ー1820年)は角館でその生涯を閉じるまで,東北を中心に一生旅を続けた紀行家です。生まれは現在の愛知県,豊橋市と言われ,また岡崎市で青少年時代を過ごしました。名古屋で薬草,医学の教育を受けた後,30歳で郷里の三河から旅立ち,現在の飯田から信濃を縦断して日本海に抜けました。そこから日本海を北上,秋田,青森,北海道の松前半島まで歩きました。真澄は70冊にも及ぶ旅日記の他,訪れた場所の地誌,民族,風俗を記録し,多くの風景,民具の絵を書き残しました。日記は[菅江真澄遊覧記](東洋文庫,1965年)として出版されています。その文章と絵図は今や江戸後期の東北の様子を伝える貴重な民俗学的資料になっています。真澄は官職につかず,移動が厳しく制限されていた江戸時代において,なぜ一個人の身分で自由に東北のみならず,松前半島まで旅行ができたのは謎とされています。薬草の知識が豊富で,行く先々では地方の有力者の庇護を受けながら歩きまわれたのは,肖像画など,描いた絵図を売って資金源にしていたのではないか,薬売りをしていたからだとか,はては久保田藩(秋田藩)のスパイであったとか,諸説あります。本名は白井英二,津軽藩を追い出された後に菅江真澄と名るようになりました。
ヘブン・ウィークでなぞる、菅江真澄の東北ルート イザベラX真澄 地図および資料について
下図は秋田県立博物館菅江真澄資料センターの図録「真澄紀行」を秋田県立博物館の許可を得て一部転載したものです。出羽陸奥の旅の行程を記した地図もご覧ください。
下記の地図は菅江真澄がいかにくまなく青森を歩いき回ったかを示しています。菅江真澄は青森には三度滞在しました。最初は津軽半島外ケ浜の三厩から北海道に渡ろうとしますが,天明の飢饉の惨状を目撃して断念します。真澄が念願の北海道(蝦夷地)に渡ることができたのは二度目の青森入りの時です。およそ4年間おもに松前藩の領内に滞在したのち,,下北半島から青森に戻りました。この時は下北半島では3年間,津軽では7年間,青森での滞在期間は合計10年にも及びました。
1797年薬草を採取する役として弘前藩に雇われたものの,深山に分け入る内に隠し鉱山などを知ったがために,2年後その任務を解かれ,藩によって日記は没収されてしまいます。嫌疑がかけられた真澄は津軽にこれ以上止まることが難しくなり,1801年,深浦から浜伝いで秋田へ逃げます。この時真澄は48歳。以降28年間,76歳で他界するまで真澄は秋田で暮らしました。
参考文献
[菅江真澄遊覧記]平凡社刊 [菅江真澄民族絵図]岩崎美術社 [真澄機構] 秋田県立博物館菅江真澄資料センター図録
弘前国道維持出張所 菅江真澄 津軽編 https://www.thr.mlit.go.jp/aomori/syutu/hirokoku/rekishi_kaidou/sugaemasumi1/sugaemasumi1.html が大変参考になります。文: Ide Maya (AJ神奈川)
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